自分を犠牲にするほど、本当に愛は深くなるのか

恋愛依存・自立した恋愛

自分を犠牲にすればするほど、愛は深くなる。そんなふうに思い込んでいた時期がありました。でも、ある友達の何気ない一言がきっかけで、その思い込みが本当に正しいのか、考え直すことになったんです。

この記事を書いた人
sarah

はじめまして。Sarah(サラ)です。

かつての私は、恋愛になると自分を見失ってしまうタイプでした。相手に依存してしまったり、振り回されて苦しい思いをしたり、そんな恋愛を何度も繰り返してきました。

そんな経験があったからこそ、「自分を大切にしながら愛される恋愛」がどれだけ大事かを、身をもって学ぶことができました。今は自立した心で、パートナーと穏やかな関係を築けています。

このブログでは、恋愛依存や自分を見失う恋愛から抜け出したい方、婚活中の方、マッチングアプリでの出会いを探している方に向けて、私自身の経験と学びをお届けしていきます。

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友達の何気ない言葉に、冷たさを感じた

その友達は、旦那さんととても仲が良くて、お互いを信頼し合っている夫婦でした。ある時、友達がこう言ったんです。「私ぶっちゃけて言うと、誰とでもうまく夫婦生活を過ごせると思う。彼を愛しているから一緒にいるけど、たぶん他の人とでもうまくやれると思う。それに彼が死んでも、私はちゃんと生きていけると思う」。

これを聞いた時、正直すごく冷たく感じました。誰でもやっていけるって、どういうこと。あんなに仲が良いのに。「もしかして、仲が良さそうに見えているだけで、本当は違うのかな」って戸惑いもありました。でも、友達がご主人のことを大好きなのは、話していてすごく伝わってくるんです。だからこそ、余計に不思議でした。

当時の私は、「旦那がいないと生きていけない」と本気で思っていた

その頃の私は結婚していて、旦那のことがすごく好きでした。だから、「旦那がいなくなったら、私は生きていけない」と本気で思っていたんです。それくらい旦那を大切に思っている自分を、深い愛だと信じていました。

友達の言葉と自分の気持ちを比べた時、「誰とでもやっていける」なんて言える友達より、「あなたがいないと生きていけない」と思っている自分の方が、ずっと深く愛しているんだと思っていたんです。

自己犠牲するほど、深い愛だと思い込んでいた

当時の私は、自分のことなんてどうでもいいと思っていました。自分がやりたくないことでも我慢する。自分を犠牲にして相手に尽くす。それが愛だと信じ込んでいたんです。

具体的に言うと、専業主婦だった当時、私は家事がすごく苦手で、家事ができない自分をずっと責めていました。だから、仕事をしてお金を稼ぐことで家庭に貢献したい、家事もお互い協力してやりたい、そんな憧れがあったんです。でも旦那はそんなことは望んでいなくて、仕事はしなくていいから家事をしてほしいと思っていました。何度か「仕事がしたい」と言ってみたこともありましたが、そのたびに怒鳴られて、だんだん言うこと自体が怖くなっていったんです。

心地よくない時に離れる、「No」と言う。そんなこと、想像したこともありませんでした。愛しているなら、自分のこと以上に相手を大事にする。それこそが深い愛だと思っていたんです。

友達の言葉の意味に、後から気づいた

恋愛依存を克服してから、あの友達の言葉を、まったく違う意味で受け取れるようになりました。友達は、旦那さんに依存していなかったんだと、今なら分かります。

深く愛し合っているけれど、相手が誰であろうと、自分の価値は変わらない。自分の心地よい空間は、自分で作れる。だから誰とでもうまくやっていけるし、心地よくないなら、離れるという選択肢もちゃんと持っている。友達の言葉は、冷たさなんかじゃなくて、自分をちゃんと持っている人の言葉だったんです。

「もたれかかっても倒れない」関係と、「もたれ合って倒れる」関係

友達夫婦は、精神的にお互い自立しているからこそ、一緒にいて楽しいし、もし困った時は助け合える、そんな関係でした。だから、「我慢する」ということがそもそもないんです。困ったことがあれば、いつでも話し合える。お互いを理解しようとする、という前提がちゃんとある。お互いちゃんと自分の足で立ってるけど、ちょっと辛い時はどちらかの肩にもたれかかる。それでも、もたれかかられた方はちゃんと立っていられる。そんな関係でした。

私たち夫婦は、真逆でした。もたれ合って、お互い倒れていたんです。ずぶずぶの共依存でした。

友達夫婦を見て、「こんな夫婦もいるんだ」とすごく衝撃を受けました。それと同時に、「こんな夫婦になりたいな」とも思ったんです。

自己犠牲は、深い愛じゃなくて「潰し合い」だったのかもしれない

自分を犠牲にするほど深く愛している、そう思っていたけれど、あれは潰し合いだったんじゃないか。友達夫婦を見て、そう思うようになりました。

現に私は、いつも我慢する状況で辛かったんです。だから、「自分を犠牲にしなくても、幸せになれるの?」と、自分に問いかけてみました。そう思った瞬間、「あぁ、私は自分を犠牲にしなければ幸せになれないと思っていたんだな」と気づいたんです。

「生きていけない」の正体は、自分を明け渡していたということ

「旦那がいないと生きていけない」というのも、よく考えると、それだけ自分の気持ちの中で旦那が大きな割合を占めていた、ということでした。旦那がいなくなるというのは、自分がなくなるのと同じだと思っていたんです。

それは、深い愛の証というより、自分という存在の大部分を、相手に明け渡していたということだったんだと、今なら思います。自分の価値も、自分の心地よさも、全部旦那に委ねてしまっていたから、旦那がいなくなったら何も残らないような感覚になっていたんです。

深い愛と、自分を犠牲にすることは、別物だった

友達は、旦那さんを深く愛していながらも、自分自身をちゃんと持っていました。一方の私は、自分を犠牲にすることでしか、愛を証明できないと思い込んでいました。

この2つを並べてみると、自己犠牲の大きさと、愛の深さは、イコールじゃないんだとわかります。むしろ、自分を犠牲にすればするほど、自分という存在が薄くなっていって、その空いた部分を相手で埋めようとしていただけだったのかもしれません。

まとめ

自分を犠牲にすればするほど愛は深くなる、そう信じていた頃の私は、自分の価値も心地よさも、全部相手に明け渡していました。でも、深く愛することと、自分を犠牲にすることは、本当は別物だったんだと思います。自分をちゃんと持ったまま、それでも深く愛することは、ちゃんとできるんです。

私自身、この思い込みにどうやって気づいて、どう向き合ってきたのかは、また別の記事で詳しくお話ししています。

もし今、自分を犠牲にすることが愛の深さの証だと感じている方がいたら、その犠牲は、本当に愛の深さからきているものなのか、それとも自分を見失っているだけなのか、少し立ち止まって考えてみてほしいなと思います。

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